“ここ”でしか聞けない“あんな話”や“こんな話”をお届けするぽにレコの目玉企画「ここばな(ここだけの思い出ばなし)」。
全3回にわたりお送りしているFishmansの“ここばな”2回目は、メンバーのパーソナルな部分にスポットを当ててみました!クスッと笑えるものから、ほっこりエピソードまで盛りだくさん。ぜひ、彼らの人柄を身近に感じてみてください。
取材者Profile

渡辺 章
株式会社フジパシフィックミュージック
渡辺 章
株式会社フジパシフィックミュージックフジパシフィック音楽出版(当時)はヴァージン・ジャパンと共同原盤で著作権の管理をなかよしグループ(Fishmansの事務所りぼんの音楽出版社)と行っており、デビューアルバム『Chappie, Don't Cry』から『Orange』の直前まで制作を担当。
『Orange』のレコーディングに入る直前にメディア・レモラスに出向し、Fishmansの担当から離れる。

野中 浩稔
株式会社ポニーキャニオン
野中 浩稔
株式会社ポニーキャニオンヴァージン・ジャパンからの付き合いで、メジャーデビューしたときには宣伝プロモーションに在籍。メディア・レモラスに社名が変更した頃に制作に異動し、Fishmansの制作を担当する。
シングル「Walkin' 」からアルバム『Neo Yankees' Holiday』、マキシシングル「Go Go Round This World!」「Melody」までを手掛ける。

柏子見 公昭
株式会社ポニーキャニオン
柏子見 公昭
株式会社ポニーキャニオンFishmansがヴァージン・ジャパンからメジャーデビューした際、FMラジオの宣伝プロモーションを担当。
Fishmansがレギュラー番組を持ったこともあり、主に初期の頃に多く関わっていた。部署異動した2年ほどは担当から離れるも、再び宣伝に戻った際に『Orange』や『Oh! Mountain』といったメディア・レモラス最後期の宣伝統括を担当する。
Fishmansとの衝撃的な出会い!楽曲に惹かれて猛アプローチ!!

——みなさんFishmansのデビュー当時からお付き合いのある方々ということで、彼らとの出会いを教えてください。
——初めて見たときに「すごい!」と感じた楽曲は覚えていますか?

野中:僕はその頃、東京・渋谷La.mamaとかに観に行っていました。そのときかな?まだデビューする前なんですけど、よくライヴでアンケートを取ったりするじゃないですか。どんなファンが来ているのかが気になってアンケートを読ませてもらったんですけど、他に好きなバンドとしてTHE BOOMとかを挙げている人もいて。当時のFishmansファンは、レゲエとかスカがかっているような音楽が好きな人+いわゆるバンドブームから流れてきた女性ファンが中心でした。デビュー前に参加して発売したオムニバスCD『PaNic PaRadise』も結構売れていたよね?
渡辺:うんうん。
柏子見:当時はイカ天(『三宅裕司のいかすバンド天国』)ブームで、KUSU KUSUというバンドがすごく人気で。オムニバスライヴをやったら、KUSU KUSUのファンが殺到してすごかった!というのをFishmansメンバーが話していましたね。
——Fishmansは、イカ天バンドブームとシブヤ系の狭間の時期なんですね。柏子見さんはいかがでしょうか?
——デモテープを聴いた感想は?
柏子見:渡辺さんと同じように、とても良い曲を持っているバンドという印象でした。実際にライヴを観に行ったら、当時はまだ演奏はそれほどでしたけど、バンドが独特の雰囲気を持っていて。特に佐藤(伸治)くんから醸し出される雰囲気が最初からとても独特だったのと、ファンの女の子たちがすごく真面目だったのがすごく記憶に残っていますね。キャーキャー言うタイプではなく、みんな大人しく観ているような熱心な女性が多かったような気がします。
渡辺:確かにそうでしたよね。みんな真面目だった。
柏子見:『映画:フィッシュマンズ』に出てきた渋谷La.mamaのシーンは、僕が撮影していまして、最後に佐藤くんにインタビューをしているあの図々しいのも実は僕で(笑)。「ライヴのお客さん、全然盛り上がらなくて酷いよね」とか、今思えば“アーティストになんてこと言うんだ!”っていうことを素人ゆえに怖いものなしに言ってしまったりしていました。でもそのくらいFishmansはすごく良い演奏をしているんだけど、ファンの方々はみんな大人しく聴いているっていう印象が強かったです。今になって思えば、当時からみなさんずっと内に秘めてFishmansのことを愛してくれていたんだなってわかりましたね。
——ライヴハウスに来るお客さんは9割くらいが女性だったのでしょうか?
渡辺:9割までいくかはわからないけど、圧倒的に女性が多かったですよね。
野中:『Neo Yankees' Holiday』が発売された後くらい、ちょうど僕が担当していた「Go Go Round This World!」「Melody」のあたりから男性ファンが増えた印象があるな。その頃、ライヴ修行だ!って言ってライヴの本数をすごく増やしてやっていたりして、「Go Go Round This World!」に収録した「Smilin’ Days,Summer Holiday」の別バージョンもライヴでのアレンジがめちゃカッコよくて、それをスタジオで収録したもの。男性ファンがライヴで「すげえ!」って興奮していたのを覚えています。
渡辺:ZAKさんがPAをやりだして以降くらいから、男性ファンが増えていったね。ライヴもサウンド志向になっていって。
低迷期からの脱却!バンドとして成長・進化に繋がった出来事とは?

——映画でも関係者の方々がおっしゃっていますし、みなさんもおっしゃっていましたけど、当時はまだ演奏が荒削りだったということですが、どの辺りから成長していったのでしょうか?

——武者修行的な感じですね。
野中:僕が担当になったときはちょうど過渡期だったと思うんですよね。シングル「Walkin'」がバラエティ番組のタイアップだったんだけど、本人たちはそんなに深い思い入れはなかったと思うんだよね。劇中でも彼らが話していましたけど、「Walkin'」の後くらいに、これから自分たちがどうしていきたいのかというミーティングをやって、タイアップ…要は売れ筋を意識して曲を作るのではなく、自分たちのやりたいことを追求していくんだという意思表明というか、バンドの方向性が固まって。その後、『Neo Yankees' Holiday』を作ることになったときに、エンジニアはZAKさんにお願いしたいとか、セルフプロデュースをしたいとなって。そこから、さっきも話したようにライヴの本数を増やしてバンド力を上げていくみたいなことをやって、それがあってのマキシシングル「Go Go Round This World!」「Melody」、アルバム『Orange』に続いていくっていう。その時期が演奏に関しても格段にうまくなっただろうし、すごい速さで成長・進化していったと思います。
渡辺:あの辺で欣ちゃん(茂木欣一)、(柏原)譲くん、ハカセが目覚めて伸びていきましたよね。
柏子見:僕が覚えているのは91年の夏に東京・後楽園にルナパークという野外ホールがあって、そこでやったライヴがものすごく印象的でした。ライヴでダブをやったんです。あのとき、ZAKさんが大阪から初めて出張してやってくれたらしいのですが、音の広がりがそれまでのライヴとあまりにも違いすぎて驚きました。当時のディレクターに聞いたら「大阪からすごいエンジニアが来てくれたんだよ」って教えてくれて。そのときに演奏した当時はまだ未発表曲の「Blue Summer」は、こんなすごい曲あったの?って思わず聞いてしまったくらい。ディレクター曰く、「わりと初期の曲」とのことだったのですが、それは後期のFishmansの音そのもので。たった1度だけでしたけれど、それをバンドの超初期の91年の夏に観られたというのはとても貴重でした。このバンドは只者じゃないと思った瞬間でしたね。
野中:ライヴでずっとご一緒していたZAKさんがレコーディングエンジニアをやってくれたのもすごくターニングポイントだよね。当時は、ZAKさんがスタジオでのレコーディング経験が少ないという不安はスタッフとして最初はあったけど、ライヴで培った実験的なことはスタジオでも全部取り入れてくれて、今までとは全然違う手触りのものができて、その後に繋がっていったからね。(Vol.2に続く…)
ポニーキャニオン時代(アルバム、ミニアルバム、マキシシングル)のFishmans年表
- 1987年 フィッシュマンズ結成
- 1991年 シングル「ひこうき」でヴァージン・ジャパンよりメジャーデビュー1stアルバム『Chappie, Don’t Cry』ミニアルバム『Corduroy’s Mood』
- 1992年 2ndアルバム『King Master George』
- 1993年 ヴァージン・ジャパン社名変更、メディア・レモラスへ移行3rdアルバム『Neo Yankees’ Holiday』
- 1994年 マキシシングル『Go Go Round This World!』マキシシングル『Melody』4thアルバム『ORANGE』
- 1995年 ライブ・アルバム『Oh! Mountain』ポリドールへ移籍